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↑ フレッド・アステア(1899-1987)


5月10日はアメリカの俳優でダンサーでもあるフレッド・アステアが生まれ
た日(1899)です。

彼は本名はフレデリック・アウステルリッツといい、父はオーストリアから
の移民、母はアルザス系の人でした。一家はフレッドや姉のアデールらが幼
い頃から家族楽団を作って全米を巡業しており、特に父のピアノとアデール
の踊りは見事なものだったそうです。アデールに才能があると考えた母はア
デールを6歳の時にニューヨークのダンス学校に入学させます。そして姉に
才能があるのなら弟も今は全然ダメでもひょっとしたらそのうち才能が出て
くるかもと考えてフレッドも一緒に同じ学校に入れてしまいました。

アデールは学校でもたちまち頭角を現し、どんどんスターへの道を歩んでい
きます。フレッドはそれに対していつも姉のおまけでしたが、そこそこに役
をこなしてまぁまぁの踊りを見せていました。フレッドは結局生涯この偉大
な姉を敬愛してやみませんでした。

やがて1931年アデールと一応フレッドも主演のミュージカル「バンドワゴン」
がブロードウェーで大ヒットします。このおかげで二人はイギリスからもお
呼びが掛かり、しばらくイギリスとアメリカを頻繁に往復する生活が続きます。

ロンドンでも二人は評判で、貴族たちにも引っ張りだこにされ、結局1932年、
アデールはロンドンでチャールズ・キャベンディッシュ候と結婚、人気絶頂
の中でそのまま引退してしまいます。

残された弟フレッドは悲惨でした。姉がいてこそ仕事ができていた訳でたち
まち失業の憂き目にあいます。そんな中、彼はフィリス・ポターと知り合い
結婚、妻に励まされて再起の道をさぐるためハリウッドへ行きます。そして
映画俳優への道を目指しますが、受けは悪く出演した最初の映画では「演技
も下手だし踊りも下手だし」と酷評される始末でした。

しかし、それでもめげずに出た2作目の映画「リオまで踊って行こう」が彼
に幸運をもたらしました。

生涯の名コンビとのちに言われるジンジャー・ロジャースと二人で映画の中
で踊ったカリオカが大変な評価を受けます。そしてそれから6年間に「トッ
プ・ハット」「シャル・ウィー・ダンス」など8本の映画がこの黄金コンビ
によって生み出されました。

ジンジャーはそれほど踊りがうまい訳でもなく、フレッドが彼女よりもずっ
と踊りのうまい女優さんと一緒に撮った映画などもあるのですが、フレッド
の踊りはジンジャーが相手の時が最高によく出来ていたと言われます。キャ
サリン・ヘップバーンは彼らを評して「フレッドの品格とジンジャーの媚び
が絶妙にマッチするのだ」と言っています。フレッドは姉と同様のイギリス
受けする優雅なスタイルにアメリカ的奔放さを加えた独自の踊りの境地を見
出したのだ、と評価する人もいます。

やがてこのコンビは、ジンジャーとフレッドの妻フィリスとの互いの嫉妬的
感情の積み重ねや、ジンジャーの母とフレッドとの感情的対立などを原因と
して解消されることになりますが、その後もフレッドは順調に仕事を続け、
非常に忙しい数年間が流れていきます。その仕事のリズムを止めたのは1954
年突然のフィリスの死でした。ガンでした。彼は仕事を減らし、悲しみに沈
みます。

20年の歳月が流れます。彼は寂しい老人でした。その彼にあと1度だけ春が
やってきます。1973年、彼は人気騎手のロビン・スミスと出会い交際し始め
ます。フレッド74歳、ロビン31歳でした。やがて二人は1980年に正式に結婚。
彼らは毎日屋内でゲームをしたりテレビを見たりして一緒に過ごし、時には
屋外で乗馬を楽しんだりもしました。

彼は年はとっても体は元気で、もちろん踊っていましたし後身の指導も怠り
ませんでした。元気すぎて75歳の時にはスケボーをやっていて怪我したりも
しています。彼は一切手抜きをしないたちで、1時間テレビに出演して踊る
だけでもその前に7週間は練習しておかなければ気が済まないという性格で
あったといいます。

そんな彼が死んだのは1987年6月22日でした。風邪をこじらせて病院に入院
していましたが、この日の早朝ロビンと手を握りあったまま、ついに帰らぬ
人となりました。2つ年上の姉アデーレもその6年前に先にあの世に行ってい
ましたので、彼は天国の人々に踊りを見せるのも姉より後になってしまいま
した。


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