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↑ ペリー(1794-1860)


日本の鎖国を終わらせたアメリカ東インド艦隊司令官マシュー・ペリー
(Matthew Calbraith Perry)は1794年4月10日、ロードアイランド州サウス・
キングストンに生まれました。お兄さんの Oliver Hazard Perry(1785-1819)
もやはり海軍の軍人です。

ペリーが日本に対して果たした役割はマッカーサーと似ており、また性格的
にもマッカーサーに似ているのではないかと評されることもあるようです。

1809年海軍に入り主として技術畑を歩みました。1812年には米英戦争に従軍。
1833年にニューヨーク海軍工廠の副官になりアメリカ初の蒸気軍艦フルトン号
の建造に関わります。1837年にはそのフルトン号の艦長となり、1843年アフ
リカ艦隊司令官、1847年にはアメリカ・メキシコ戦争に参加。そして1852年の
3月に東インド艦隊司令官になり、日本を開国させるべしとの命令をフィルモア
大統領から受けました。

アメリカは当時太平洋で捕鯨を展開しており、その船団の補給基地として、
太平洋の東端にある日本と付き合いたいと考えていました。特に日本で生産
される良質の石炭に注目していたようです。また1846年には捕鯨船ローレンス
号が千島列島沖で遭難。択捉島に流れ着いた7名の船員を松前藩が拘束し幕府の
指示により長崎でアメリカ船に引き渡されるという事件がありましたが、この
時この7名の船員が犯罪者に準じる扱いを受けたとして、日本に国際慣習を
守らせるべきとの世論が沸き起こっていました。

同様の事件は1851年にも起きていました。この時の漂流者を引き取りに行った
東インド艦隊のグリーン中佐は日本にアメリカとの国交を開かせるべきとの
意見を大統領に建白。そこで同年6月10日、ホイッグ党(まだ南北戦争前で共和
党はできていない)のフィルモア大統領は東インド艦隊司令官のオーリック将軍
に次のようなことを命じました。
 (1)日本で石炭の補給ができるようにすること
 (2)日本が漂流船員をきちんと保護するようにさせること
 (3)アメリカ船が日本の港で商業行為を行ってもよいようにすること

ところがオーリック司令官はこの直後部下のトラブルが原因で罷免されてし
まいます。そしてその後任に任命されたのがペリーでした。彼は3月の就任後
大統領から改めてこの命令を受け取り、準備を整えて1852年11月24日アナポ
リス港を出発して補給と乗員の休養ができる香港を目指しました。時に58歳。

アメリカではペリーに先行して1846年にジェームズ・ビドルが帆船2隻を持って
浦賀に来航し、日本に開国の要求をしていました。しかしビドルは日本の官僚
の今も昔も変わらない、だらだらとした交渉術に見事にはまってしまい、何の
成果も引き出せないまま帰国していました。

そこでペリーは海軍長官とも話し合った末、あの日本の交渉術にはまらない為
にはある程度軍事的な脅しも必要であるという腹を固めていました。そして、
場合によっては日本の属領(具体的には沖縄)の軍事占領も視野に入れることを
決めていました。

ペリーは1853年4月7日(嘉永6年2月29日)香港に到着。短い休養の後、4隻の船で
日本を目指しました。サスキハンナ(旗艦)・ミシシッピという2隻の蒸気船と
ほか2隻の帆船がありました。本来はショック療法を行うため12隻の大艦隊で
行くつもりだったのですが、故障のためこの陣容となってしまいました。

一行は5月26日(和暦4月19日)に沖縄の那覇、6月18日(和暦5月12日)小笠原の
父島を経て、7月8日(和暦6月3日)浦賀に到着しました。

早速浦賀奉行の配下の与力がオランダ語の通訳を伴って旗艦にやってきて来航
の目的をただします。開国の交渉に来た旨を伝えると、与力は日本は鎖国をし
ているのでそういう交渉には応じられないと伝え、また外国船は長崎で受け付
けているので、そもそも、そちらに回航するよう要請します。しかしペリーは
そういう話は断固拒否。自分はこの国の最高権威者との直接交渉にしか応じな
いとし、乗員に戦闘態勢を取らせて、話を聞く気が無ければ攻撃するぞという
雰囲気を漂わせます。

すると浦賀奉行所でもこれはただならぬと感じ、急ぎ江戸に指示を仰ぎました。
ペリーはその間ボートを降ろして浦賀湾内の測量を堂々としてみたり、蒸気船
を江戸湾の奥深くまで侵入させて直接江戸の幕閣たちがその驚異を感じられる
ようにしてみせました。

そこで若き筆頭老中・阿部正弘はとにかく国書だけは受け取るよう浦賀に指示、
7月14日(和暦6月9日)浦賀奉行・戸田氏栄が「皇帝第一の補佐官・伊豆公」と
名乗って、久理浜でペリーの持ってきた大統領国書を受け取りました。この時、
ペリーは300名の陸戦隊を上陸させ、礼砲を撃ったりして、日本側を圧倒して
います。そして、ペリーは来年その返事を受け取りに来ると言い残し、12日、
4隻全部を率いて江戸湾奥に再度侵入して示威した後、香港に引き上げました。

この時のことをペリーは「ビドルが半年かけてもできなかったことを私は4日
で成し遂げた」と自慢げに日誌に書いています。

また彼はこの最初の来航の時主に交渉に当たった浦賀奉行所与力香山栄左衛門
を「教養があって紳士的。こういう国でもちゃんと教育を受けている人は世界
の文明レベルにそう遅れていないようだ」と高く評価しています。彼との出会
いはペリーに日本に対する良い印象をもたらしたようです。

ペリーは浦賀を退去すると7月25日(和暦6月20日)那覇に寄港。琉球政府に交易
の開始と貯炭所設置を求めました。琉球は最初これを断りますが、ペリーは
すぐさま軍事的に威嚇。その前に琉球側はなすすべなく、この要求を受け入れ
ました。

香港に戻った後ペリーはちょうど中国で勃発していた太平天国の乱に伴うアメ
リカ人の保護の作業に駆り出されます。そしてその疲れもまださめやまぬ1854
年1月14日(和暦12月16日)蒸気船3隻・帆船4隻の陣容で香港を出発、那覇に来た
所で江戸幕府から将軍徳川家慶が逝去したため、交渉作業ができないので少し
待って欲しいという手紙を受け取ります。

しかしペリーは外交交渉はトップの死で中断されるべきではないとしてこれを
黙殺。予定通り日本に船を向け、2月13日(嘉永7年1月16日)横浜金沢沖に到着
しました。なおこの間アメリカ側も大統領が民主党のフランクリン・ピアスに
交替していました。ピアス新大統領は一転して対日本に消極的な姿勢でしたが
ペリーはとにかく自分が命じられていたことはきちんと完了させなければなら
ないと決意していました。

今度は本格的な交渉を覚悟していた日本側も大学頭・林復斎と浦賀奉行・伊沢
政義を全権代表に指名し、アメリカ側の交渉役アダムズ中佐と横浜村・駒形で
交渉をはじめました。この時日本側の代表団は、同時期ロシアから開国交渉に
来ていたプチャーチンとの交渉の進展を見極めながらできるだけ結論を先延ば
しするよう指示を受けていましたが、アダムス大佐の方は「万難を排して確固
たる態度を示し、譲歩する姿勢は一切見せないこと」と指示されていました。
結果は火を見るより明らかでした。

日本側はとうとう開国やむなしとして小笠原を貯炭所として公開することを提
案しますが、アメリカは拒否。結局長崎をアメリカにも正式に開放するととも
に5年後「下田付近」にもう1ヶ所開港すること、また遭難者については海賊
である可能性もあるので一応拘束した上でアメリカに引き渡すとしましたが、
アメリカは5年後では話にならないので60日後に開港すること、また海賊である
という証拠のない者を拘束することは許されないとして、更に日本に譲歩を迫り
ます。

結局日本側は遭難民をきちんと保護することを約束。開港する場所も下田をすぐ
に、それに加えて翌年函館も開け、また下田に領事を置くことを約束させられ
ました。結局二度目の来航からわずか1月半の後、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)
日米和親条約(神奈川条約)が締結されます。

ペリーは下田と函館を下見した上で5月には下田追加条約を締結して下田の玉泉寺
にアメリカ人の休憩所(のちにハリスが領事館として使う)とすることなどを定め
ました。こうしてペリーは日本から大きな譲歩を引き出し、日本を200年振りに
開国させることに成功して、6月意気揚々として香港に引き上げました。

この帰路、彼は小笠原に関しては防御も弱いと思われるので軍事占領してしまお
うと考えていたのですが、ピアス大統領はそれを不許可としました。やむを得ず
小笠原は測量などをするだけに留めています。

なお、この横浜での交渉中に吉田松陰らの密航未遂事件が起きます。ペリーは
日本の国内事情を色々聞きたいという気持ちがあって、この若者たちをアメリカ
に連れて行きたいとも考えましたが、万一ばれると折角ここまで順調に来た日本
との交渉を台無しにしてしまいます。そこで「君たちは見なかったことにするか
ら、このまま帰りなさい」と説得しました。そしてその後結局松陰らが自首して
出たことを知ると、日本側に穏便に処分してあげるよう働きかけています。

ペリーはこうして大きな成果を得て1855年1月にアメリカに帰国。1860年に亡く
なっています。妙な野心もなく、生粋の職業軍人であったようです。

アメリカで南北戦争が始まるのはその翌年1861年です。ペリーがもしのんびりと
した交渉をしていたら、アメリカは日本開国どころではなくなっていた所でした。
南北戦争が終結したのが1865年ですが、徳川幕府は1867年に倒れます。日本国内
がたいへんなことになっている時期にアメリカも大変であったことはその後の
太平洋をはさんだこの二大国の運命を示唆しているのかも知れません。


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